トルコとギリシャの過去・現在・未来

オリエント(東洋)とヨーロッパ(西洋)を分ける境目、それがトルコとギリシャです。

 

オリーブオイルたっぷりの食事を好み、酒はラク(ギリシャではウーゾ)を好む。

共に温暖な地中海に面し、食習慣においては、トルコとギリシャは近しい関係です。

 

地理的に西ヨーロッパから離れていて、西洋から遅れている事を痛感し、

伝統的な生活習慣を色濃く残しながらも、西洋的な近代国家を目指している国。

ここでも、トルコとギリシャは、同じような国家像を目標としているようです。

 

極端な例(アメリカとメキシコのような例など)を除けば、

地続きの国は、同じような歴史的位置にいると考える事ができます。

 

近隣の国同志は、相互に影響を受けながら

多少の時間のずれは、ありながらも、同じ様な過去・現在・未来を

辿っていくものなのではないでしょうか?

 

私は、インドから陸路で西へ西へと向かう旅をした事があります。

 

トルコとイランの国境の町、トルコ東端の町ドゥバヤジット。

 

私が、波乱に満ちたイラン国境を超えて、トルコで最初に辿り着いた町が、

ドゥバヤジットです。

 

トルコ領内に入り、最初に出会った人が、発した第一声は、

「私たちは、トルコ人ではない」と言うものでした。

 

「またか・・・」と辟易とする気分でした。国境近辺を旅する度に、

このような言葉を聞かされていたので、「どれだけ、紛争が有るのか・・・」

と、正直ウンザリした気分になりました。

 

勿論、彼等にとっては、それが民族のアイデンティティとして当然の主張なのだと思います。

それは、トルコの少数派として、今後も生きていく彼等にとって、核となる部分なのだと思います。

 

ドゥバヤジットは、旧約聖書のノアの箱舟が辿り着いた山として、有名なアララト山の麓の村です。

シルクロードの典型的な宿場町で、城壁以外に取り立てて何があるわけでも、有りません。

町と言える規模ではなく、村と言う感じが近いです。

それだけに、町の人々は、旅人に総じてフレンドリーに接してくれました。

 

アララト山は、美しい山でした。アララト山の麓には、延々と平原が続いていて、

最も通りやすい場所に道(シルクロード)があり、そこに宿場町が有ると言う構成でした。

 

到着翌日の昼食後、シルクロードを散歩しました。どこまで歩いても、

雄大なアララト山が左手に見えていました。街道とアララト山を隔てるものは、

どこまでも続く平原でした。

 

私は、街道を離れ、美しいアララト山にどこまで近づけるか試してみたいと思い

アララト山への最短のルートを歩き始めました。

どこまでも続く平原を歩く内に街道が見る見る遠ざかっていきました。

 

どこまで歩いても続く平原とアララト山の風景でした。

アララト山の美しさに呑まれて中腹位までなら、登れるのではないか、と思い始めていました。

ふと、前方に、人間が動いているのと同時に、木作りの建屋が目に入りました。

人が、町から遠く離れた何も無い所に住んでいたのでした。

 

瞬間的に思ったのは、「水はどうしているのか?」という事でした。

付近には、川などはなく、町からは、遠い場所です。

建屋が木作りで、定住型の建屋だったのでロマ(ジプシー)の人達では、

ないと思いました。

 

たちまち子供達が、私の周りに集まってきました。

いきなり、私のリュックのありとあらゆる場所に手を突っ込み始めました。

親は、建屋から出て、こちらを見ていました。これには、驚きました。

これほど、あからさまに子供にやらせる親を見た事が無かったからです。

 

大体、子供におねだりさせている親は、ひっそりとその様子を見守っているものです。

 

子供達を、リュックから振りほどくと、子供達は、私に石を投げてきました。

威嚇の為に投げ返すと、子供たち全員が、私に、石を投げ始めました。

よけきれるものではなく、石は当たり、ただただ、自分めがけて投げられる石は痛いものでした。

 

ただし・・・子供たちが本気で投げていたら、あるいは親が加勢していたら、

私は無傷では済まなかったでしょう。

 

ドゥバヤジットの少数派の人々は、自分達以外の人間と交流して、これまでに、

ろくな事は無かったのではないかと、事件が一段落した後に想像しました。

 

ともあれ、私は、石の集中砲火から逃げるように平原を彷徨いました。

すると、犬が仲間を呼ぶ雄叫びが、いきなり近くで聞こえました。

視界には、屈強そうな犬が間近で4匹、遠方の方からこちらへ向かう犬が

4匹認識できました。たちまち8匹の犬に囲まれました。

1匹と闘って勝てるかどうか、の犬の大きさです。

かろうじて、近くの崩れかけた土塀によじ登りました。

なす術は有りません。

 

インドのブッダガヤで、多くの犬に囲まれて、

手に持った石で犬を追い払いながら、塀で一晩過ごしたと言うドイツ人の

友人の話が、親近感と共感を持って、迫ってきました。

 

私に石を投げて来た子供達や親は、遠巻きに事態の推移を見守っていました。

崩れかけの土塀から後ろを振り返ると、200メートル程先に

巨大な建物が立っていました。トルコ国軍の国境軍事施設でした。

 

完璧な武装をした兵士3人が、私を見ていました。

人だ!と思い助かるかもしれないと考えた私は、彼等に手を振りました。

しかし、彼らは、軽機関銃を手にしたまま、微動だにしません。

あくまでも任務を遂行すると言う迫力が全身を覆っていました。

私は、トルコ人ではなく、胡散臭い格好をした異邦人で、

胡散臭い場所(国境近辺)に侵入してきた人間でした。

 

危機は、気がついた時には、間近に迫っていると実感しました。

他に打つ手が無く、どうしようもない私は、長期戦の覚悟を

しました。何か戦術が有る訳ではなく、ただ土塀の上で

立っているだけでしたが・・・。

 

すると、どれ程の時間が過ぎたのでしょうか?

なぜか、犬の包囲網が解け始めました。後ろを振り返ると

兵士達は、相変わらずヘルメットの下の表情は読み取れず、

無表情なままで軽機関銃を何時でも使用できるような態勢でいます。

 

犬が、50メートルくらい遠ざかった時に、勇気を持って土塀から降りました。

街道に出るまでは、生きた心地はしませんでしたが、無事に宿に戻る事が出来ました。

ドイツ人の友人との違いは、犬が凶暴になる夜ではなく、

昼だったという事が幸運でした。

 

トルコ東部(アナトリア)は、山に囲まれた乾いた大地が

延々と続く風景でした。私はこの、アナトリアの風景が好きです。

アナトリアの風景は、トルコ(クルド人)の名匠ユルマズ・ギュネイ監督の

映像の美しい風景そのままでした。私は、彼の映像の再現を

視るような錯覚を覚えながらアナトリアの風景を眺めていました。

 

またアナトリアの音楽も私は好きです。どこか似ているなと思ったら、

ネパールの音楽と似ていました。アナトリアは、重厚で哀愁漂う音楽、

ネパールは、あくまでも明るい音楽。曲の気分は違うのですが、

山を超え、天に向かって突き抜けるような調べは、共通なのです。

アナトリアは、山岳民族クルド人が多く住む土地です。

山の人々が、音楽を作る際に寄せる思いは、共通なのかと思います。

 

アナトリアの音楽は、トルコ西部で聞かれる音楽とは異なります。

トルコ西部で聞かれる音楽は、中東や北アフリカの音楽と

共通性があり、幅広い地域で愛されている曲調です。

それらの音楽と比較すると、アナトリアの音楽(文化)が

独特のものである事が、わかります。

 

一方で、地域間格差が、はっきりある事もわかりました。

トルコ東部(アナトリア)と西部を比較すれば、遅れた東部・進んだ西部で

ある事が、一目でわかります。

 

最近では、トルコ東部の発展が国家としての安定に不可欠と言う事で

トルコ政府は、東部の開発に力を入れているようです。

 

その後、私はトルコ東端の町ドゥバヤジットから

西へ西へと移動しました。

 

トルコは、20世紀前半にケマル・アタテュルクの革命によって、

イスラム国家として初めて、西洋型の近代国家を目指した国です。

アタテュルクの革命からそろそろ1世紀が経とうとしていますが、

近代化は、達成できたのか?

それは、私には分かりませんが、近代化と伝統的社会の相克を

実際に見る事ができました。

 

トルコ中部の世界的観光地のギョレメ、ここでは、大変洗練された

レストランがいくつも有り、大変美味なトルコ料理を手軽に

味わう事ができます。私は、そのうちの一つのレストランの

オープンテラスで、ランチを食べていました。

 

そのレストラン沿いの道の前方から、若い女性が歩いてきました。

ウェスタナイズされたファッションで、ミニスカートでした。

別に、この観光地では、珍しいファッションでは有りませんでした。

すると、道の後方から、大きな舌打ちが聞こえました。

そのレストランに居た一同が、ほとんど振り返りました。

馬車に乗った老年の女性が、その若い女性を、睨み付けていました。

その老年の女性は、伝統的なイスラムの服装でした。

伝統的な世界に生きているその老年の女性にとっては、

異物のようなその若い女性のファッションは許しがたいものだったのでしょう。

 

アラブの春を受けてトルコは、アラブへの外交を積極的に進めているようです。

トルコは、一足先に近代化へ踏み出した経験を踏まえて、アラブの国々に

イスラム国家の近代化への道は、着実さが必要である、

と説いているのではないでしょうか?

 

伝統的な集落が、近代化を受け入れるのは、相当な時間を必要とすると、

トルコは実感しているのではないでしょうか?

 

アラブを含めたイスラム世界の穏健な前進に寄与する事こそ、

イスラム世界全体の発展にとって重要と

トルコの人達が今、考えているなら、トルコは、またしても、

イスラム世界にとって、指導的役割を担う事になる可能性を秘めています。

トルコは、ヨーロッパとの関係が最も深いイスラム教の国として

宿命的に、その役割を担う立場に有るのかも知れません。

 

近代国家は、規模が大きいほど国際社会での発言力等が強くなり

それによって国家運営も有利に働くので大規模化への指向が強くなっています。

典型的な例がEUです。けれども一方で、その国家内での地域主義への指向も

年々強くなっていると思われます。それは、政府が一体感を演出すればするほど、

それへの反発として、抗い難い勢いで、噴出しているものです。

近代化とは、民衆の自立心を促すもので、

それは自分自身が住んでいる地域への愛着を促すものなのでしょうから、

地域主義の高まりは、必然ともいえます。

最近では、イギリスにおけるスコットランド、

スペインにおけるバスク・カタルーニャ地方の分離独立運動が、

分かりやすい事例です。

 

トルコの首都アンカラ。ここでも、偶然にその地域主義の一端を見る事ができました。

私がアンカラを訪れた時に、アンカラ・フェスティバルというものをやっていました。

花火が、盛大に上がり、アンカラの歌を、アンカラ市民が10回以上歌っていました。

単純なメロディで、歌詞は、アンカラと言う固有名詞が大半。

それを、集まったアンカラ市民のほとんどが歌うのです。

凄い迫力でした。アンカラ市民のアンカラに対する愛着が、伝わってくる歌でした。

繰返しが、あまりにも長く続いたので、私が今でも歌う事が出来るほどです。

 

一段落して、フェスティバルの司会者が、イスタンブールと言う固有名詞を

出した途端、アンカラ市民の凄まじいブーイングが始まりました。

部外者である私が呆れる位、ブーイングは果てしなく続き、ついには

司会者が、アンカラの方が上だよな、と言うと、アンカラ市民は

割れんばかりの歓声となりました。そこからは、文字通りのフェスティバルとなりました。

 

イスタンブールの市民が、アンカラをどのように考えているか分かりませんが、

アンカラの市民は、イスタンブールに対して強烈な意識が有ると感じました。

 

イスタンブールは、ビザンチウム・コンスタンティノープルと名前を変えて

現在のイスタンブールに名前を変えた由緒有る街で、トルコで最も有名な街です。

この街では、およそ20年前のトルコ経済が置かれていた立場、

及び国際為替の問題を学ぶ事ができました。

 

アンカラ・イスタンブールのビジネスマン及び自営業者と話していると

「EUへの加盟は、もう間近なんだ!」と、熱気を持った口調で力説される

事が度々でした。隣国ギリシャは、トルコよりも国力が無いにもかかわらず

ただ、近代ヨーロッパの生みの親の国と言うだけで、EUに加盟していました。

そのギリシャが、EUに加盟していると言うだけで、最大の恩恵を蒙っていた時期です。

その当時で、ギリシャとトルコの物価水準は、倍以上の差がついていました。

それは、少なくともその物価水準差以上の一人当たり国民所得の

差がついていたと言う事になります。

彼等のEU加盟への期待や焦る気持ちが、痛いほど私にも伝わりました。

 

NATO加盟国であるトルコは、特に1980年代以降の中東の戦争において

NATOの優等生として、その基地の役割を忠実に果たしていました。

 

彼等は、そう言う事実を持って、「もう我々は、西洋から信認されているんだ。

だから、すぐにEUに加盟できるんだ。」と力説していました。

 

しかし、トルコはEUへの加盟を、2012年現在でも果たせず、

ギリシャは、統一通貨ユーロへの加盟も果たし、

先進技術的な格差は無いにも拘らず、ますます両国の格差は、開いていきました。

そう言うトルコ経済の当時の状況を端的に現していたのが国際為替でした。

 

両替の為に銀行に行くと必ず衝撃的な宣伝文句が、どの銀行でも、

建物の窓ガラスに、でかでかと貼り付けられていました。

「1年物の定期預金利率が80%!」と。

しかし、トルコ国民の誰も、定期預金の窓口に並ぶ人はいません。

1年間の通貨下落率が、80%を遥かに上回っていたので

80%の利息を受け取っても損をするからでした。

逆に、給料日になると、人々が銀行の窓口に殺到します。

給料として支給されたトルコの通貨リラを、

当時最強の通貨ドイツ・マルクに換える為でした。

トルコは、急激なインフレに長期間にわたって晒されていたのでした。

ドイツ・マルクに換えれば、持っている紙幣の価値が下落することは無い

と言う理由からでした。

 

イスタンブールでは、ガラタ橋の近くのビアホールに毎日のように通っていました。

ライセンス生産のドイツの美味しい生ビールを、

庶民的な値段で提供してくれる流行っている店でした。

そこのチーフウェイターが、ニューヨークヤンキースのデレク・ジーターに似ていて

苦み走った男前でしたが、気性の良い人で、すぐに仲良くなりました。

 

そんなある日、私は、お勘定を見て、びっくりしました。

昨日よりも、ビールの値段が上がっているのです。

通い始めて、初めての値上げなら驚かなかったでしょう。

ですが、つい3日前に値上げが、あったばかりなのです。

「そんな、毎日のように値上げが有るなんて、常識的に考えられない!

 君達の店は、お客を侮っているのではないか?」

私は抗議し、デレク・ジーターと喧嘩になりました。

 

翌朝、私は、いつものように、ガラタ橋の近くのスタンドに

朝食等の買い物に出かけました。若い、気分の良い兄さんが

やっているスタンドです。大体、買うものは何時も決まっていて

水・フランスパン・ゆで卵でした。

その兄さんは、私の姿を遠くから確認すると、

私の買うものをすべて用意してくれていました。

それで、何時ものように、決まった金額を差し出すと、彼は

足りない、と言いました。

 

怪訝な表情を浮かべていた私に、その兄さんは、

今でも忘れられない笑顔で、こう言いました。

「また値上げだよ、これがトルコなんだ!

ようこそ!俺達の国へ!」

 

その店でも、3日前に値上げが有ったばかりでした。

 

私は、本当に悔やみました。デレク・ジーターに

ひどい事を言ってしまったからです。

それでも、その夜は、彼の店へ行きました。

そして、謝罪すると、デレク・ジーターは、

「良いんだよ、気にしないでくれ。他の国の人にとっては

驚く事だよ。だけど、トルコでは当たり前の事なんだよ。」

と言って、水に流してくれました。

彼の寛大さに感謝し、救われた気分になりました。

 

毎日のように行われる値上げ(=急激なインフレ)は、

実感として大変な事だな、と思いました。

自分が持っている紙幣の価値が、一日一日下落していく事実を目の当たりにして、

短期間しか滞在しない旅行者の私でさえ度を失ったのです。

まさに、自分が持っている紙幣の価値が、時間が経過するほど

減少していく恐怖心は、体感した人にしか、わからないものなのでしょう。

その時に初めて、給料日にトルコ・リラからドイツ・マルクに換える為に

銀行に殺到する人々の気持ちが分かりました。同時に、そんな空間で

生きていくのは、地獄だなと正直なところ、思いました。

 

私がトルコを訪れた時で、1USドルが1万リラでした。

その後、1USドルが、10万リラになったと聞きました。

そして、トルコは、デノミを行い、今は、1USドルが、1.5リラ程度になっています。

 

トルコとギリシャでは、今なお所得水準格差が、大幅に有ります。

トルコの今の実業界をリードする世代は、若い頃に

急激なインフレと言う地獄を経験しています。

あの通貨地獄から、安定した通貨となり、少しづつでも、

所得水準が上昇していくのなら、彼等は、大いに満足するでしょう。

 

ギリシャは、長年に亘って、EU加盟の果実を享受し、

近隣諸国と比して、技術的格差は無いにもかかわらず

極端な恩恵(ヨーロッパの保護)を受けてきました。

彼等の所得水準は、どの近隣諸国と比較しても、今なお破格です。

ギリシャ国民は、今の生活水準が、少しでも下がる事に

(それでも、充分に生活できる水準なのに)不満を持っています。

 

二つの国の未来を予測する上で、重要な指標が、

外国人投資家の動向です。トルコでは、外国人投資家による

資金流入が、資金流出を上回り、ギリシャでは、資金流出に

歯止めがかからないようです。

トルコは、皮肉にもEUに加盟できなかった事で、

今、投資先として熱い注目を浴びているのです。

 

 

近隣の国同士は、多少の時間のずれは有りながらも、

同じような過去・現在・未来を辿っていくと言う仮定が、正確だとしたら

しばらくは、トルコが前進し、ギリシャは後退する、

と言う未来予測が成立します。

 

                                                         記   2012年12月6日 槻木記